06.10.05:09
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08.14.05:16
彦龍ラーメン
昭和62年から平成5年くらいまで、道潅山下の交差点近くに住んでいた。最寄り駅はJR西日暮里駅か地下鉄千駄木駅だった。仕事が終わって一杯やって、仕上げはラーメンって感じが日常だった。よみせ通りや谷中銀座の目の前に住んでいたので、もっぱら呑んで帰ってはフラフラその辺りでラーメン屋を探していた。飲んでいない日でも休日には、日暮里、田端、谷中、千駄木、根津、不忍通り界隈はかなり散策したつもりだった。
若い部下の男子が泊まりに来たので近くで飲んでいた。さて、ラーメン屋で仕上げとなり歩いていると見慣れない看板がポツリとあった。そう、あの「彦龍」である。まだマスメディアで有名になる前の「彦龍」に入った。「青空あきお」をより一層に貧相にした感じの親父「原 憲彦」がそこにいた。メニューもあまりない感じの殺風景な店内には一人も客はいない。
「マスター、ラーメン二つね。」と注文した。この近くは日本医科大学の看護寮や会社の社員寮が多くある。「ここは結構、女子寮の子が多いんだよ。」と親父が世間話をしてきたので、自分と部下は酔っ払っている脳味噌で応対していた。味は美味しくはないが、後年テレビで言われる程の不味くもない。親父が寂しそうなので売れる商売の話しとかしながら勘定を済ませた。その後、引っ越す前まで幾度か入ったが、大抵は客は自分一人だった。
「ダウンタウンのごっつええ感じ」を何気なく見ていて驚いた。彦龍親父が紹介されている。また、「神出鬼没タケシムケン」にも親父は出ていた。確かに地元仲間内では「まずい」と言われていたが、吐き気がするほどではなかった。何故、こうも有名になったのか、谷根千七不思議の一つである。しかし、何もかも懐かしい。
←彦龍公式サイトのバナーらしい、現在このサイトは存在しない。
関連サイト 谷根千ねっと
関連サイト 千駄木三丁目北町会
若い部下の男子が泊まりに来たので近くで飲んでいた。さて、ラーメン屋で仕上げとなり歩いていると見慣れない看板がポツリとあった。そう、あの「彦龍」である。まだマスメディアで有名になる前の「彦龍」に入った。「青空あきお」をより一層に貧相にした感じの親父「原 憲彦」がそこにいた。メニューもあまりない感じの殺風景な店内には一人も客はいない。
「マスター、ラーメン二つね。」と注文した。この近くは日本医科大学の看護寮や会社の社員寮が多くある。「ここは結構、女子寮の子が多いんだよ。」と親父が世間話をしてきたので、自分と部下は酔っ払っている脳味噌で応対していた。味は美味しくはないが、後年テレビで言われる程の不味くもない。親父が寂しそうなので売れる商売の話しとかしながら勘定を済ませた。その後、引っ越す前まで幾度か入ったが、大抵は客は自分一人だった。
「ダウンタウンのごっつええ感じ」を何気なく見ていて驚いた。彦龍親父が紹介されている。また、「神出鬼没タケシムケン」にも親父は出ていた。確かに地元仲間内では「まずい」と言われていたが、吐き気がするほどではなかった。何故、こうも有名になったのか、谷根千七不思議の一つである。しかし、何もかも懐かしい。

関連サイト 谷根千ねっと
関連サイト 千駄木三丁目北町会
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